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27年前の就職活動(企業訪問解禁日)

あれは、今から丁度27年前の今日、1986年8月20日。
今ほど早くはないけれど、当時、1983年・84年・85年と企業が内定を出す
時期がジリジリと早まっていた。(それでも、4年生になってからのタイミング)

そう言えば、昨日の記事で触れた「半沢直樹」は88年の就職活動という設定に
なっているので、私の2年後輩ということになるのでしょうか。

さて前年の85年は7月に内定が出ていたので、我々が大学4年生になった86年は
GW明けには内定が出始めるのではないだろうかなどという噂も飛び交っていた。

一方、「就職活動が早まるのは、学生の本分である学業に悪影響を及ぼす」という
いつの時代にでも必ず出てくる議論が当時もあり、就職協定の見直しがあり、
86年は企業訪問解禁日は8月20日(4年生対象)とされていた。

学生の間では「そんな協定、絶対に破る企業が出てきて、なし崩しになるに決まって
いるよ」という意見も多く、3年生の3月末まではスキー部活動100%だったのを
4年生の4月には就職セミナーのようなものに通い始めたものです。

しかし、結局この年の就職協定(企業訪問解禁日)は守られたのです。
なので、解禁日の8月20日は始発に乗って第一志望の会社に並び、遅い午後にやっと
第二志望の会社を訪問し、第三希望だった現在働いている会社の面接を受けたのは
なんと間抜けな午後でした(^_^;

第一志望ではないのは明白であり、内定もらうまで結構いじめられたのも、今となっては
もう笑い話。 なにせ人生49年弱の内、26年以上、今の会社に勤めているのですから(^_^;


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5/29  たまにはスキーの話でも(5)

今週も日曜日の夕方から金曜日の夜まで丸々一週間お客さんが来ています。
なので、今週も大半の記事は週末に予約投稿したものになる予定です。

前回の記事

そんなスキー大好き少年が大学に入るわけですね。

中学受験の小6時には、交通機関の問題もあり、自力でスキーに行くことは
できなかったのですが、大学受験最中の高3の2月(1983年)、私は
滑る」という縁起の悪さを無視して、スキーに行きました♪

大学受験の最中に「滑り」に行く人は貴重だったと思いますが、天邪鬼な私は
そういうことをするのが好きです。

スキー場で、「ナンパサークル」と思わしき連中が、タラタラ滑っているのを
見て腹が立ちました。

「女と一緒にチャラチャラ滑ってんじゃねーよ、アホ!」ってのが、高校生
Muirwoodsの率直な感想でした。

スキー場の脇に立てられていたレース練習用のポールとかの間を滑って、とても
興奮していたのが17-18歳のMuirwoods少年だったのです。

とにかくスピード、「速いのが楽しい」、これですよね(^_^;)

なので、大学では「女子部員の居ない競技志向のサークル」限定で選んでましたが、
1ヶ月経っても見つからなかったので、「女子部員なし」は諦め、「女子部員の少ない
競技志向のサークル」で調べなおし、とあるサークル(WSS)に5月初に入部
することに。

私の大学4年間は、大学の講義を受けていた時間よりも、WSSの部室や部活に
割いていた時間の方が、はるかに長かったことは内緒です(^_^;)


しかしながら、中高時代を完全に自己流で滑っていた小生に対する、諸先輩方の
批判は凄まじいものでした(>_<)

お前のスキーは、基本的に全然なってない!」というお叱りを受けた訳ですね。

私は基本的に「型を無視して」、反射神経と筋力だけでスポーツをやるタイプなので、
ゴルフとか超苦手なんです(>_<)

ただね、転ばないんですよ。 どんな状況でも。
中高時代、滅茶苦茶に鍛えていたスキーで、無手勝流、滅茶苦茶な滑りなのに
速いし転ばない。

先輩諸氏の常識を崩さして頂きました(^_^;)

しかし、やはり同期の中では最初から速い方でしたが、無手勝流では上手な先輩達
には太刀打ちできません(>_<)

なので、基礎から練習し直します。
腰が回るという悪い癖は、割と早く治すことに成功しましたが、「後傾」「上半身の
バラツキ」は最後まで治りませんでした(^_^;)

中高時代はストックの使い方が良く分からず、足腰だけで無理矢理ターンしてましたが、
ストックワークを覚えて、腰を回さないようにすることで、上手く体重を外足に
乗せ、スキーをたわませることでスピードのあるターンが出来るようになりました。

後傾がなぜ良くないかと言うと、体重が後ろに掛かることから、スキーを直線方向に
走らせることはできるものの、重心がずれることにより、必要な板のたわみを確保
できなくなるのと、板のコントロールが難しくなるという欠点があります。

最初っから最後まで後傾では話にならないんですが、キッチリ中央に体重を乗せ
切れるターンを終えた後、最後にちょっとだけ後傾になって板を滑らせると、
良いタイムが出ることが分かり、若い頃はよくそういう滑りをしてましたが、筋力が
衰えてからはさすがに上手く行かなくなりましたね。

最近(というか、この20年くらい)は、カービング・スキーに変わったので、外足一本で
滑るような技術は主流ではなくなりましたが。





5/25 たまにはスキーの話でも(4)

予約投稿が続きます。

中1・中2の冬(スキーシーズン)は1977-79年でしたが、当時はスキー場に
直行する「スキーバス」(ツアーバス)というのはなくて、夜行列車などを
駆使してスキー場に通っておりました。

が、中3(1979-80年)のスキーシーズンにはスキーバスが登場したので、
以降は高校時代以降含め、スキーバスのお世話になることが多かったですね。

夜中走って早朝にスキー場につくので、金のない学生にはありがたい存在でした。
関越道を中心に走ってましたが、幸い事故には遭いませんでしたね。

中2~高2の4シーズンは、だいたい年3回くらいはスキーに行っていた
でしょうか。

スキー友達も「O君」を中心に5-6人に増え、色んな面子でスキーに行っていた
中高時代でしたね。

私の座右の銘は中学時代から一貫して「脚を使って、限界までスピードを出す」
ことでしたから、スキー場に行っても、とにかくスピードを出すことに専念して
おりました。

「ゆっくり滑る=罪悪」みたいな(^_^;)

誰にも教わらず、自己流でやっていたので酷いものです(>_<)
今でも覚えているのですが、「戸狩スキー場」というのがあって、そこに行った
時に、比較的空いているリフトを発見。

凸凹の急斜面だったんですが、リフト待ちが大嫌いで、常にスピードを出して
いないと満足できないMuirwoods少年は、その空いているリフトが大いに気に
入りまして、当時の遅いシングル・リフトですから、「リフト8分、滑走1分」の
9分サイクルを60回繰り返しまして、朝8時から日暮れの17時まで9時間連続で
ひたすら滑っていたことがあります。

これは、その後の長い人生の中でも破られてない記録ですね。

休憩はレストハウスで、カレーを掻き込んだ(10分)のみ。
もっとも、8分×60回のリフト上は、十分な休憩ですけど。
これは今のライドにも通じますね。
休憩や補給は悪、ひたすら距離を稼ぐこと、みたいな(^_^;)

足を止めている(移動していない)のが嫌いな性格なんでしょうね。

5/24 たまにはスキーの話でも(3)

予約投稿が続きます。

1972年の札幌ですから、当然同年2月の札幌オリンピックで「金銀銅」と
表彰台を独占した「日の丸飛行隊」のジャンプが子供達には大人気。

私も、スロープを滑ることにはさしたる興味もなく、いつも友達と、スキー場や
スロープの片隅に、高さ20cmくらいのジャンプ台を作って、飛行距離5-8m
くらいのジャンプをして遊んでました。

そういうことばかりやっていたので、後年「ストック」の使い方が下手になった
のでしょうね(^_^;)

3級からスタートした私も、4年目である5年生になった頃には、1級に入れて
もらうこともあるくらいに上達したものでした。

でもって、6年生になる時に東京へ帰還。
1年生の終わりにさようならをした級友達との再会です。

しかし、すっかり道産子になり切っていた私にとって、「東京の子供達」というが
こまっしゃくれていて、妙に抵抗感がありましたね(>_<)

中学は公立に行くのが当たり前と思っていたのに、「俺は私立を受験するんだ」
なんて生意気にも言うやつが居たりして、吃驚仰天したものです(^_^;)

しかし、まあ7歳まで生まれ育った東京ですので、1学期が終わる頃には、
すっかり「東京っ子」に戻ってしまい、ゲームセンターに通ったり、ちょっと
イケナイ遊びにも手を出すなど、普通の「ませた6年生」になっちゃいました
けどね(^_^;)

でもって、これも周りの影響から、「中学受験」を目指すことになり、「中学
なんて公立に行けば良いじゃないか」と渋る両親を説得し、進学塾なるものに
通わせてもらい、受験モードに突入していく、少年Muirwoods@12歳でした。

というわけで、さすがに「受験生」だった小6の冬はスキーには行きません
でしたね。

しかし、晴れて中学生となったMuirwoods少年は、中1の冬、同級生2人と
3人で、5泊6日くらいの東北旅行をすることになり、その際に2年ぶりの
スキーをやることに。

岩手の盛岡に2泊し、田沢湖に3泊だったかな。
岩手ではスケートをやるはずだったのが、湖が凍っておらず残念。
ちなみに薄い氷に足を乗っけて、溺れかけたことは内緒です(^_^;)

今だと「まだ中1なのに、子供だけで5泊6日の東北旅行?」と思われそう
でしたが、我々が中学時代は、そんなこともまだ許される時代でしたよね。

さて、3人の内1人は、スキー未経験者でしたが、もう1人は「親に連れて
行ってもらったことがある」との経験者。

初心者の「O君」にはスクールに入ってもらい、僕は経験者の「Y君」と
二人でリフトに乗って頂上まで行きます。

確か青森県の「田沢湖スキー場」だったかな。

ところが、Y君、思ったより上手じゃない(^_^;)
札幌の山で鍛えた私にはついて来れず、途中からリフトで降りてもらいました。

Y君とは、その後一緒にスキーに行くことはなかったんですが、初心者だった
「O君」はスキーに目覚めてしまい、高校時代に至るまで、私の貴重な「スキー
友達」になってもらいました。

今日はこの辺まで。

5/23 たまにはスキーの話でも(2)

予約投稿が続きます(^_^;)

1ヶ月以上前に、ネタがないときの昔話シリーズの一環として、「たまには
スキーの話でも
」というタイトルで記事を書きましたが、その後、割とネタが
あったので、続編がありませんでしたが、今日明日で一週間分の記事を書かねば
ならないので、ネタに困ったときの「昔話」シリーズで行ってみようと思います
(^_^;)

前回の記事

さて、日本で初の冬季オリンピックだった札幌オリンピックが閉会してから
2ヶ月も経たないタイミングで、少年Muirwoodsは札幌に引越しすることに
なりました。

そして、運命の1972年11月、8歳になったばかりの私は、生まれて初めて
スキーを体験することに。

当時の札幌では、冬の間は運動場が雪に覆われて使えないため、冬の体育の
授業は週1回のスキーに集約されてました。 

学校まで、スキーを担いで行き、給食が終わった午後、スロープと呼ばれる、
リフトも何もない、滑れる坂に行き、そこでスキーをやってました。

私は「札幌市立山の手小学校」というところに通っていたのですが、近くに
「三角山」というのがあり、「宮本スロープ」というのと「赤坂スロープ」
というのがありました。

いずれも、宮本さんや赤坂さんが、ご好意で私有地を開放していた場所です。

生まれて初めてのスキーであり、しかも小学校2年生だったので、既に1年生
のときにやってた子供達より明らかに遅れていたわけですが、1級~4級に
分けられるクラス分けの試技で、なぜか一番下の4級ではなく、ひとつ上の
3級に入れてもらうことに。 脚力があると思われたからだろうか。

当時のスキー板の素材は、「単板」という単に板を切り出しただけのものが
一番安く、次に「合板」というのがあり、これは複数種類の板を合わせて
作るもの、そして高値の花である「グラスファイバー製」のスキー板が
君臨してました。

私が買い与えられたのは、当然のことながら、一番安い「単板」。
同学年(小2)の大半は「単板」が「合板」であり、「グラス」なんて
高級品を履いていた子は、1級に一人居たか居ないかでしたね。

でもって、ビンディングは「カンダハー」です(^_^;)
あの、手でガッチャンとはめるやつですね。

手を使わずにはめられる「ワンタッチ」ってやつも出始めてはいたようですが、
「グラス」同様、小学生には高値の花でしたので、皆当然のごとく、カンダハー
でございます。

そして靴も、「インナー」がない1枚構造であり、かつ「ひも靴」でした。
でも、バックルがついた靴を履いている子も少なからず居ましたね。

インナーがないので、分厚い靴下を2枚重ねで履きます。
しかも、高さがくるぶしまでしかないので、簡単に骨折します(>_<)

靴もさることながら、カンダハーというビンディングは、転倒時に自動解放
されないので、カンダハーと古いタイプのスキー靴という組合せは、足首の
骨折リスクの高いものでした。

今のスキー靴は高さがあるので、足首の骨折は少ないですが、その分
膝の故障が増えましたよね。

さて、今日はここまでです(^_^;)

たまにはスキーの話でも

予約投稿が続きます。


私は東京生まれであり、10年をちょっと超える海外駐在期間を除くと、日本に
滞在していた「37年超」の内、33年超は、東京に住んでました。

唯一の例外が「昭和47年4月~昭和52年3月」の札幌滞在です。
昭和47年(1972年)と言えば、2月に札幌で日本初の冬季オリンピックが
開催された年です。

70m級ジャンプで、日の丸飛行隊(笠谷・金野・青地)が金銀銅のメダルを
独占するという大活躍をしたことから、スキーなどとは全く縁のなかった、
小学一年生@7歳のMuirwoods少年は、「ジャンプって凄いなぁ」「札幌って
どこにあるんだろう」と、ようやく我が家に来たばかりのカラーテレビに
かじりついて札幌オリンピックを観戦しておりました。

オリンピックが終了し、その興奮も冷めやらぬ翌月3月のこと。
突然母親から「札幌に引越しするから」と伝えられます。

一瞬なんのことだか訳解りませんでしたが、どうやら父親が札幌に転勤になる
とのこと。

2年生の新学期は札幌で迎えることになりました。
羽田から千歳に向かう飛行機に乗ったのは仏滅の4月4日でしたが(^_^;)

社宅があったのは、90m級の公式ジャンプ台がある「大倉山シャンツェ」
からほど近い山の手。 ジャンプ競技のアナウンスがハッキリと聞き取れました。

1972年11月、Muirwoods少年は、その後の運命を左右するほどの影響の
あるスキーを初めて履いたのでした。

あぁ。。。ダメだ。。。。 俺の人生の30年弱を占めるスキー人生。
書き始めると、前置きやらなんやらで、やたら長くなる。

4/15の夜に書き溜めてる最終話(3話目)だけに、もう酔いが回ってきて、
文章作成能力がなくなってきた。

続きはまたいずれ。 (車の話みたいに7話続くかも(^_^;)
プロフィール

Muirwoods

Author:Muirwoods
2010年1月、45歳にして、短距離通勤用として購入したクロスバイク(MARIN Muirwoods、26インチMTB仕様)がいつのまに生活の中心的存在となり、Muirwoods号で300キロ超のロングライドに挑戦し、2010年末46歳でロードバイクデビューしました。

ロードバイク1台目は「Cervelo RS」。
11年7月にジャカルタに赴任、CAAD10を新規購入して持ち込みましたが、事故で大怪我をしてしまい、現在自転車活動は休止中です。

本年10/10を以って50歳になりした。
50代の10年も、頑張ります!!

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